円塔が建ち並び、それぞれに橋を架設し繋がった街。灰白色から白茶色が入り交じる石畳の路地に、少年が一人佇んでいる。ペールブロンドの髪を持つ少年の名前は、リュカといった。靄がかかったような視界の中で辺りを見渡すが、ここは建物に遮られ光が入らずしんとして仄暗い。人々の営みの音も、誰かが石を踏み往く靴の音もなく、あまりに静かな秋の夕暮れ時のことだ。
 
―(今日、僕はなにをしていたのだっけ。)
 
 ぼんやりとした一日だった。学校が終わった後どうやって自分がここに来たのか、よく覚えていない。先生や友達の声も、今日は半透明な分厚いカーテン越しに聞いているようだった。
 
 リュカの立つ、上のほう。家々を繋ぐ橋に見知らぬ少年が一人、口元に微笑みを湛えリュカを見下ろし眺めていた。微風に揺れる少し青みがかったグレイの髪に、自信に溢れた強い眼差し、しかしそれらよりも、リュカは翠玉の瞳の美しさに目を奪われる。凛と伸びた背筋は、少し煤けた服を不思議と上等なものに見せた。
 橋の上の少年は手招きし、石畳の上の少年を呼ぶ。
 見知らぬ少年に呼ばれ、自分を見据える瞳の中に映る激しさにリュカはたじろいだ。緊張し強張ったリュカの面持ちの中に、僅かばかりためらいの神色を認めると、翠玉の瞳の少年は目を細めて僅かに首を傾げ、身を翻して西のほうへと歩いて行った。
―待って、どこへ行くの。
 リュカは慌てて後を追った。手近な扉から塔の中へ入り、薄暗い塔の中に靴音を高く響かせ螺旋階段を駆け上がる。
―(確かあの少年がいたのは、二階の橋だった。)
 二階の扉を開き、木製の橋を進む。橋は向かいの塔へリュカを渡し、そのまま塔をぐるりと囲む回廊となって続いた。見失ったのではないかと気を逸らせ、少年が駆けていった方角へ走る。塔は民家と繋がり、先のほうでこちらを向いて立ち止まる少年を見つけると、リュカはひとつ息を吐いた。
―君は誰なの。
 遠慮がちに、しかし遠くのほうにいる少年に届くよう声を張り上げた。
 少年は問には答えず、微笑と瞳に強い光を湛えたまま左腕を水平に持ち上げ、傍にある石造りの家の扉を真っ直ぐ指さす。少年の声が聴こえることはなかったが、リュカにはこちらへ、と確かに言われた気がした。
 少年が扉を開き、吸い込まれるように建物の中へ姿を消した。彼の後に続こうと、リュカはゆっくりとした歩調で扉の前まで歩く。
 深い焦げ茶色をしたマホガニーの扉。経年劣化によりところどころ塗装が剥げているが、使い込まれた木戸にどこかリュカは懐かしさを覚える。古びた真鍮の取っ手を押し下げ、中へと入った。
 
 建物の中は薄暗く、西側にある窓から差し込む夕日に塵がきらきらと舞う。先ほどの少年の姿は見当たらない。おそらく奥の壁に見える、僅かに開いている扉の向こうだろう。淀んでいるが、たった今人が通り過ぎた空気の流れが感じられた。
 意匠を凝らした紋様の美しい隣国製の絨毯に、十人は腰掛けられそうな長テーブルと椅子。窓と反対側の壁にはリュカの背丈をゆうに超す奇妙な油絵の抽象画が掛けられ、その下にあるショーケースにはいくつかの写真立て、それに様々な形と大きさの食器が並べられていた。不思議な形をした異国の陶器も多く見られる。どうやらここは客間か食堂のようであった。しかし、部屋は長年使われた形跡がなくどの調度品も埃を被り古びている。
 これ以上空気を揺らすと眠りについている部屋を起こしてしまう気がして、リュカは音をたてないように慎重に奥へと進む。
 
 扉の向こうからくぐもった声が漏れ聞こえてくる。低い、年を取った者の響きだ。
―(あの少年のほかに、誰かいるのだろうか。)
 リュカはおそるおそる、少しだけ開いたままだった扉を引いて中を覗き込んだ。
 
 扉の向こうは、手前の客間に比べると幾分と狭いこぢんまりとした居間だった。古い本がところ狭しと並べられ積み重ねられている。暖炉の傍には揺り椅子に腰掛けた老人が一人。真っ白い豊かな髭と丸い眼鏡は、お伽話に出てくる魔法使いを思わせた。その老人を囲むように5,6人の子供が絨毯の上に座り、みな一心に老人を見上げ次の言葉を待っている。
―(あの子は)
 翠玉の目の少年は、西日を背にして窓枠に寄りかかっていた。リュカに視線をやると微かに首を傾け、暖炉のほうへ、中へ入るよう促した。彼の瞳には先程の激しさはなく、柔和なまなざしを見て、リュカは今度は戸惑うことなく進み、子供たちの後ろのほうに立った。
 微笑んだ老人は、ゆっくりと目を閉じ頷く仕草でリュカを歓迎すると、話を再開させた。
 
―…籠城の末、命を落としたメルキセデク。彼は、彼の故郷である美しい蒼の高原を抱き、地底の国へと還って往く。 
 
老人の声は唄となり、リュカの全身を駆け巡る。しなやかに嚠喨する老人の声は、なんと不思議な音であったろうか。
 
―永遠の生を自覚したメルキセデクは、地上に優しいあたたかな雨を降らせ、長きに渡る戦争を終わらせる。人々は、メルキセデクが還った地底の国と降り注ぐこの雨にこそ真実があるのだと気づき、とめどない涙を流した。
 この雨は、メルキセデクだ。彼は世界の命も、地底の命をも賭けて世界に温もりを与えたのだ。
 輝けし雨の中、高原の空を見上げ涙する妻の額にひとつ口づけを落とし、メルキセデクはすべてへととけた。
 
 老人は一度言葉をと切ると目を閉じ、両手を開いて天へと掲げた。
 
―Let there be light!
 
 老人が最後に放った言葉と同時に、七色の光が次々とはじけた。子供たちが歓声を上げる。光は少年と子供たちの周りを、部屋中を駆け巡った。煌きは色とりどりの粒となりリュカや少年、子供たちの間を踊る。花火か、雨か、パレードで舞い散る紙吹雪か。どれとも形容できる光の粒を、少年たちは見開いた目で追う。そして、どこからともなくハープやクラヴィーアに似た和声が、美しい音色が降り注いだ。恐れはなく、リュカはただこの幻想的な光景に目を奪われた。
 光子はひとつひとつが宝石の輝き。皆の瞳はこの世にたったひとつの、一瞬の珠玉となった。
 
 
 老人の足元に子供たちが群がり、恍惚としたままのリュカに老人は優しく声をかけた。
―また、おいでなさい。
―…はい。
 気がつくと翠玉の瞳の少年がリュカの傍にいた。間近に見る彼の瞳は、本当に綺麗な宝石だった。少年はリュカの肩にそっと手を置く。温かい、人の手だった。
―さあ行こう。きっとまた来られるから。
 少年はリュカを促し、先に扉から客間のほうへ行き、リュカも続いて扉に近づく。もう一度老人に会釈をしようと思い、出て行く前に一度部屋を振り返った。
―(…いない。)
 安楽椅子に腰掛けていた老人も、老人に寄り添い嬉々として戯れていた子供たちも、もはやどこにも居なかった。誰が居た痕跡もなく、あるのはすべてが静止した椅子と本ばかり。
―(どうして。)
 暫く呆然と立ちすくんで部屋を見回していたが、はたと少年のことを思い出し急いで彼の後を追って部屋を、客間を後にした。
―(彼まで消えてしまったのじゃないかしら。)
 
 
 
 彼は歩くのが早いらしい、リュカは駆け足で少年を追い、家の前に立っていた少年に慌てて声をかける。
「よかった、君は消えないんだね」
「消えないよ。僕は君と同じだから」
 同じというのはどういう意味だろう、とリュカは一瞬考える。
「消えてしまったおじいさんと子供たちはどこへ行ったの。どうして消えてしまったの。君は誰なの」
 先ほどの興奮が残っているのか、頬を上気させたまま矢継ぎ早に尋ねるリュカに、サーシャと名乗った少年は苦笑する。困らせてしまった、とリュカは恥ずかしくなって彼に向かって身を乗り出していた居住まいを正した。
「ねえ、せっかくだもの、ゆっくり話そうよ。僕はサーシャ。君は?」
「ええと…僕はリュカ。ぼうっとしていたらここに来てしまったんだ。ここはどこなんだろう?」
 リュカは、そういえば自分が今どこにいてどうやって来たのか、そしてどうやって帰ればよいのか分からないことを思い出した。サーシャは不思議そうな顔をする。
「それじゃあリュカ、君は迷子なの?」
「そうみたい」
「君の街は?」
「シザール…」
「ここから東の街だね。それほど遠くないよ、行こう」
 そう言うとサーシャはリュカを促して、ゆっくりと群青色に染まり始めた空の方向へ歩き始めた。
 リュカは追う。先ほど目にした光の粒が瞳にの奥にちらつくのを感じる。