唐突に、音が遠ざかる。音だけではなく世界は色褪せ、自分以外のすべての存在が一瞬の内にいなくなってしまったかのようだった。隣にいるはずの母も、母の声も分厚い膜の向こうに消える。
豹変した世界に戸惑っていると、学校の方角と反対側の通りから異様な気配を感じてはっと顔を上げた。
向こうから何かが近づいてくる。地の底から湧き起こるような低く不快な音を伴って、大きな黒いものが通りのすぐそこまで来ている。
通りの先の角から霧のような、輪郭のぼやけた巨大な黒い影のようなものが現れた。深い深い闇の色だ。それは見る間にこちらへと近づいてくる。僕は金縛りにあったかのように、その場から動けなくなった。
―……。…。
全身からどっと汗が吹き出す。震える手には力が入らず、母を呼ぶことはおろか己の衣服を握り縋ることもできない。視線を逸らしたいという欲求とは裏腹に、僕の目は影に釘付けだった。黒い影の底知れない邪悪な空気を纏う姿は、まるで地獄から這い出してきた悪魔だ。内臓が押し潰されるような圧迫感に戦慄する。あれとは相容れない。僕はあれを受け入れてはいけない。
近づくにつれ影はゆるやかに速度を落としていく。来るな、来るな…来ないで…。
そして、それは目の前まで来ると完全に止まった。
…ガラーン、ガラーンと、遠くから時計塔の鐘の音が近づいてくる。同時に、喪失していた音と生命の気配が世界に取り戻された。動かなかった体にも自由が戻り、無意識に吸い込んだまま止めていた息を吐き出す。ゆっくりと呼吸を整える。大丈夫だ、すっかり元通りだ…。
視線を上げて、僕はあっけにとられた。目の前にあったはずの影は跡形もなく、代わりにそこにあったのは、僕たちが待っていた馬車だったのだ。どういうことだろう。たった今まで黒い形のないものだったのに、食い入るように見つめてもそれは何の変哲もない屋根付きの馬車で、先ほどの影はどこにも見当たらない。御者席を見ても、座っているのは恰幅の良い白髭の男性で、脱帽してにこやかに会釈をするその姿は確かに人間に見えた。
恐怖からの震えは収まったが、汗でぐっしょりと濡れてしまった服は急激に体を冷やし、寒さによる震えを引き起こす。影の姿はなくなったけれど、胸には不快感と嫌悪感がわけも分からずぐるぐると渦巻いていた。
―あら、どうしたの?顔色が悪いわね。それにその汗…大丈夫なの?
婦人と別れ、御者と挨拶を済ませた母が振り返る。僕は大丈夫だと無理やりに笑って見せ、足元のトランクとバイオリンのケースを掴むと、御者が開いてくれた扉から馬車の中へ運び込もうとした。しかし、近づくほどに足が震える。馬車に踏み込もうとしたが、全身が強張り拒否するのをどうすることもできず、仕方なく荷物だけを馬車の奥へと押しやり、一度踏み台から降りると母に先に乗るよう促した。
そして、席に座る母の姿を見た時にそれは起こった。僕の脳裏に突然、記憶にない映像が流れこんできたのだ。映像はごく短いものだったけれど、それは強い衝撃となって僕の頭を打ちのめした。暖かな手、優しい眼差し、包み込まれる繭のようなやわらかな愛情…知らない、こんな記憶に覚えはない…
…覚えていない?本当に?
―……、何をしているの?やっぱり、体調が悪いの?
名を呼ばれて再び母へと意識が戻った刹那、これまでに感じたことのない違和感が襲った。目の前にいる女性は確かに僕の母なのだけれど、おかしい、母はこんな顔をしていただろうか…僕を見つめる、作り物のように美しいこの女性は……
そして、もう一度馬車に乗ろうとした時にようやく悟った。
僕はこの馬車には乗れない。
気づくと馬車の扉の前に立って、僕は母に何事かを告げていた。意識にすら上っていなかった事が、何の迷いもなく滑らかに、自然に口を衝いて出ていた。けれど僕の心は驚くほど落ち着いている。それはとても不思議な感覚だった。
母の、困惑に見開かれた自分と同じ翡翠の瞳を見つめ、静かに微笑んでから、僕はゆっくりと扉を閉めた。
それから、エーデルローゼとは逆の方角へ、北へと向かって駈け出した。