あの頃のことを思い出すと、僕の心は凪いだ海のように一切の時を忘れ、精神の奥深く、魂の在り処へと沈み込む。
そうして、無数に枝分かれした道はすべてが正しく、ここにいる僕も、無数の道に存在する”僕”もまた何一つ間違ってはいないのだと、全身で感じるのだ。
 
 
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今日僕はこの町を出る。
南下して川を二つ、湖と山を越えた先にある首都エーデルローゼ。僕たち家族は住み慣れたルヴァンの町を離れ、これから新たな地で新たな生活を始めるのだ。
 
―…ええ、陛下のお膝元であるエーデルローゼですわ。先達て、一足早くに都へ向かった夫から手紙が届きましたの。それによりますと、色とりどりの花に溢れた、噂に違わぬ美しい町なのだとか…。
 
引越しが決まったのはちょうど一週間前、司法局に務める父の働きが認められて、首都へ招かれることになったのだ。局からの要請で、決まったその日に父は一人慌ただしく荷造りをして出て行ってしまった。
くすんだ白い石畳を、靴でジャリと擦る。足元には、少ない荷物を詰めた小さなトランクと、背が伸びた僕の体に合わせて、前の誕生日に両親から贈られたフルサイズのバイオリンが入った真紅のケースがぴったりと並んでいる。他の荷物は母の手配で先に新しい家へ運んでもらった。そうして今、空っぽになった家の前の歩道に立って、僕たちはもうすぐやって来るはずの馬車を待っている。
馬車に揺られながら南へ向かう自分と母の姿を想像する。僕と母は向い合って座るだろう、そして、僕は頷きながら母の話を聞くのだろう。それはとても楽しいことのようだった。
それにしても、今朝からずっと頭痛がしている。
 
―陛下のお側でお暮らしになられるなんて、本当に羨ましいですわ、マルセルさん。あの町へ往くことは、誰もが憧れることですもの…。
 
僕はこの町を出て行く。それは至極当然のことで、何の疑問もないことだ。僕は、どこへ行っても上手くやれるのだから。父も母もいる、家もある、学校もある。ただ住む場所が変わるだけ、他は何も変わらない。
昨日の教室で、先生の口から知らされた事実に驚く学友たちの顔を思い浮かべた。町を出ることはそれまで誰ひとり伝えていなかった。すると驚いたみんなは一様に黙っていた僕を責め、中には怒りながらも涙を流す者もいた。僕は一人一人に深く詫び、またいつか会えることを約束した。そうすると最後には、学友たちは笑顔で励ましの言葉を僕に投げかけた。
急なカーブを描いた通りの先を見やる。視線を上げると、林立するアパートメントの中から突き出だした学校の時計塔が青空に聳えている。もうすぐ鐘が鳴る、馬車が来る。
 
―ですが、お優しかった皆さんとももうお会いできなくなるなんて私、胸が痛みますわ。
―まあ、それは私も同じですのよ。だってあなた方は、それは素晴らしいご家族でしたもの!
 
早朝の今、通りを往く人はまばらだ。先ほど撒いたパン屑を、いつも来る鳥たちが一心に啄んでいる。毎朝パンを一欠片細かくちぎって投げるのが日課だった。
明日からこの鳥たちはどこで食べ物を得るのだろう。
新しい町に、鳥はいるだろうか。
 
―それに息子さんも本当に賢くていらっしゃるから、あちらの学校でも、きっとすぐに一番の成績を取ってしまいますわね。
 
楽しみですわ、という声と共に視線を感じた。母が嬉しそうに笑っている。
僕は気づかないふりをして、パン屑咥える鳥を観察した。口の端を微かに持ち上げて、できるだけ自然な微笑を作る。わざとらしくないように、驕ったふうにならないように、ばかみたいに見えないように。こうしておけば、どんな時も誰もが揃って顔を綻ばせて僕を褒める。そうして父も母も嬉しそうに破顔するのを、僕は知っている。
…そのはずだった。なのにどうしてだろう、上手く出来ない。いや、母と、母と談笑している婦人がこちらを見て満足そうに微笑んでいるのは確かだったが、僕だけがぎこちなさに動揺していた。
頭の中に、真っ黒な棘棘したものがじくじくと疼くのを感じる。鋭利な棘は僕の中にある一点だけを執拗に狙っている。隠さねばならない、それは浅ましく愚かなものなのだからと。得体の知れない焦燥感が、徐々に僕の体を侵蝕していく。