1,蛍石<フローライト>
 
 
「今日は、この石についてのお話しをしましょう」
 コトリと、テーブルの上に緑色の鉱石が差し出された。手の平に乗るほどの小さな八面体をした石の表面は、窓から差し込む光に照らされ柔らかな光沢を放っている。結晶内はところどころ白く波打ち、中心へゆくほどに深い森の湖の底を思わせた。
「蛍石(フローライト)といいます。蛍石は実に様々な色を持ちますが、これは緑の蛍石(グリーンフローライト)ですね。では、この石が一体どのように出来ているのか…手に取って、光にかざしてご覧なさい」
 シアンはそっと石を持ち上げると、窓に向かって角度を変えながら注意深く観察した。石の中で、ちらちらと貝殻のような七色の光が無数に煌めいている。それはとても小さく、光の正体を捉えようと手元にあったルーペを使う。すると、拡大された蛍石の中には意外なものが閉じ込められていた。シアンは驚いて教授を振り返る。
「先生。虫が、石の中に小さな虫が見えます」
 貝の光の正体は、小さな虫の羽であった。それが石の中にいくつもいくつも集まっているのだ。
「そう。この石は名前の通り蛍(フロー)を中心に形成されているのです。蛍といっても、私達の知っている蛍ではありませんので、正しくは擬似蛍(フィグフロー)ですが。…ではシアン君、何故擬似蛍が集まりこのような鉱物を形造ったのか、少しの間考えてみてください」
 教授は、シアンが考えている間はいつもそうするように、狭い研究室を行ったり来たりし始めた。陽気に身体を上下に揺らしながら歩く様子は、急かすことはなくむしろのんびりとした時間を与えてくれるので、シアンは集中して熟考を重ねることができる。
 まさか虫が鉱石を作る役割を果たしているとはにわかには信じられず、シアンはルーペの先で石をくるくると回し、まずは石の形態を確認する。仕組みの一端でも見えてこないか、目を細めてじっくりと観察する。よくよく見るほどに、石の中には想像以上にたくさんの擬似蛍がいることが分かった。
 シアンは、考えついたことを話しながらまとめる。
「…蛍石の核には、擬似蛍の好む匂いを発する成分が含まれているのです。それは蜜のようなもので、引き寄せられた擬似蛍は蜜を吸うとそのまま死んでしまいます。そうして擬似蛍の死骸は核と一体化し、同じ蜜を生成し始めるようになり、また別の擬似蛍を引き寄せる…それを繰り返す内に結晶が次第に巨大化してこのような形になった…というのは、いかがでしょうか」
「うん、うん。なかなか鋭いですよ、良い発想です」
 教授はにこにこと満足そうに八の字にたくわえた白い髭を揺らしている。想像しただけの答えが合っているとは思わなかったが、シアンは教授の反応を見て自分の着眼点が悪くなかったらしいことを素直に喜んだ。
「そうです、重要なのは核にあります」
 蛍石に隠された秘密を、教授は静かに語り始める。
「擬似蛍の卵は、はじめから核の中にあったのです。卵は核の中で孵り、幼虫は核を破って石の外へ這い出してくる。しかし彼らは飛ぶことはおろか、歩くこともままなりません。ですから、一生を蛍石の上で過ごすことになります。もちろん石の上にいては捕食することもできません。彼らの栄養源は核そのものなのです」
 蛍石の核は無数の擬似蛍と深い緑のヴェールに隠されているため、肉眼では見えない。疑似蛍が卵を産み、孵り、さらに核という硬い殻を破って地上に姿を現すなど、こんな小さな虫にできるとはとても思えなかった。
「やがて成虫となった擬似蛍は、核に新たな卵を産み付けます。すると、これは本当に不思議な事ですが、卵を産んだ後の母体は徐々に核と一体化を始めるのです。そう、君の考えた通りですよ」
「一体化…それは、どのようにしてなるのですか」
「蛍石には、特別なものが摂取した場合に体の組成を変化させ同一化させる、ある特殊な成分が含まれています。もちろん、たとえ私達が蛍石を口にしたとしても、私達の体が変化することはありえませんし、他の多くの生き物たちもそうです。しかしこの擬似蛍というのは、この成分を隅々まで浸透させる体を持っているんですね。
 その成分を吸収するために進化したような彼らの体は、まるで蛍石のために存在しているかのように思えるほどです」
 日が陰ってきた。徐々に赤く染められていく研究室で、擬似蛍の死骸を宿した蛍石が鈍く輝いている。石はまるで冥界の火であるかのようにシアンの目には映った。
 教授が、背の高い飾り棚の奥から古ぼけた箱を持ち出した。テーブルの上で蓋を開けると、どうぞと言ってシアンに覗くよう促す。
 箱の中には、大小様々な色とりどりの石が幾つも入っていた。輝きは蛍石と似ているが、でこぼことした不揃いな面が不規則に並び歪な形をしている。ルーペをかざして見てみると、やはりどの石の中でもたくさんの擬似蛍が時を止めていた。
「これも蛍石なのですか」
「そうですよ」
「しかし、なぜ同じ蛍石でもこのように形が違うのでしょうか…この緑の蛍石はこんなに綺麗な八面体なのに」
 シアンは先ほどの緑の蛍石に視線を向ける。八面体の表面は研磨されたように滑らかで美しかった。
「蛍石が八面体を形成するには、もう一つ欠かせない条件があるのです。…何だと思われますか?ヒントは、もうしばらくすると現れるものです」
 そう言うと、教授は静かに窓の外へ目を向けた。モノクルの奥で教授の瞳が橙に色付き揺れている。シアンは考える。テーブルに置かれた、普段は青白い自分の手も白いシャツも、何もかもが夕日に赤く照らされている。蛍石の中に広がる夕焼け色の波と擬似蛍の羽が瞬く姿に、一瞬目を奪われた。
 そうか、必要なのは光だ。でも太陽は今にも姿を隠そうとしている。
「…月、ですか」
 まるで今この空間こそが答えのようだった。教授はシアンに向かってにっこりと微笑むと、大きく頷いた。
「よく分かりましたね、シアン君。蛍石が八面体になるためには、どうしても月の光が必要なのです。月光を浴びれば浴びるほど、蛍石は早く美しく結晶化しますが、反対に光が弱ければ綺麗な八面体にならない…一定量の光に当たることが大切です。しかし蛍石の多くは、光の届かない森や山の奥にあるというのも事実です」
「難しい条件なんですね」
「ええ。蛍石は劈開の良い鉱物なので人工的に八面体を作ることはできますが、自然のままの姿ではなかなか珍しいんですよ」
 月の光の届かぬところで結晶化したものが、この箱の中に入った様々な形の蛍石なのだろう。こちらが天然の鉱石であるとすれば、八面体の蛍石はほとんど宝石といえる。
「八面体の謎は解けましたが、でも先生。蛍石は擬似蛍の産卵と成長で結晶化するのなら、どこかで結晶化が止まらないと際限なく巨大化してしまうのではないでしょうか。しかしこれらの蛍石は、見たところ中の擬似蛍が生きている様子はないし、これ以上は大きくはならないように思えます」
「それは擬似蛍が生息していた時期と関係があります…と言えば、君ならもうお分かりですね?」
 教授の言葉にシアンはすぐにあっ、と閃いた。
「そうか、地上に擬似蛍が誕生した時期に蛍石も形成を始めた。そしてその擬似蛍は既に絶滅していて、蛍石の結晶化もそこで止まってしまったんだ」
 シアンは自分に説明するように言葉を紡いだ。蛍石もまた擬似蛍がいなければ鉱物として成り立たないとなれば、鉱石の生成と昆虫である擬似蛍の生息時期は重なるということになる。考えれば簡単なことだったが、石と虫という異なるふたつの存在を咄嗟に結びつけることはできなかった。
「擬似蛍が成長するには蛍石が必要だし、蛍石もまた核から結晶を作るには、擬似蛍の存在が欠かせないのですね」
 どちらかが欠けても存在することは不可能だ。蛍石と擬似蛍はふたつが揃ってひとつの鉱物であり、昆虫だった。ふたつの存在は運命のようだと、シアンはこの鉱石の生まれた、遠い遠い過去を思った。
 ほ、ほ、と教授が楽しげに笑い、ゆったりとした動作でオイルランプに火を灯した。太陽は足早に森の木々の向こうに隠れてしまった。柔らかなオレンジ色の火が、あっという間に暗くなってしまった室内を暖かく照らし出す。
「では、シアン君が上手くまとめてくれたところで、お茶にしましょうか」
「え、お茶ですか」
 シアンは驚いて教授を振り返る。講義の後にお茶をするなど初めてのことだ。教授は蛍石を箱に収めると、鼻歌を歌いながらさっそく茶器をテーブルに広げ始めた。
「蛍石のお話にはあと少し続きがあります。けれど話をするには夜の闇が必要ですから、それまでの待ち時間ですよ」
 小腹も空きましたしねえ、と一体本棚のどこに入っているのか、あれこれと菓子類を引っ張りだしている教授にシアンはしばし呆気にとられていたが、並べられた菓子を見ると途端に空腹感に襲われ、手伝いますと張り切って立ち上がった。