―どうだい、いい場所だろう。
どこまでも続く真っ青な海を前に、あの人が両腕を広げて振り返った。波の打ち寄せる音と、あの人がパシャパシャと水を蹴る音だけが空間を満たしている。潮騒が途切れれば、上空からカモメの声が微かに耳に届いた。あの人の少し伸びすぎた白銀の髪が、草原が波打つように、まるで宙に浮かんでいるかのようにふわり、ふわりと風に乗る。太陽が海面を、海中の珊瑚を、私たちの立つ石灰質の岩場を、空を行くカモメを、あの人の少し灼けた肌を照らし、音も色彩も、ここではすべてが研ぎ澄まされた透明な氷のように美しかった。
飛び交う細かな光の粒子がきらきらと瞬く。なんて眩しいんだろう。
すっと、あの人が水平線を指差した。
―ほら、一番向こうの、一際深い緑に変わってるところ。あれが別の場所の、別の海に繋がる境界線だよ。
青い海の中には白や群青が混じり、それらは次第に色や形を変えて流れていく。その最果てに、水平線とほぼ平行を成して伸びる、一筋の深緑があった。直線の形を保ったまま淡く発光しているそれは、海面に浮かび上がるものとしてはあまりにも不自然だった。私は、あそこにはきっと大きな大きな緑色の蛇が住んでいるのだと思った。
―この海にはね、たくさんの…本当にたくさんの船が行き交っている。その船に乗って、いろんな国のいろんな人たちが、未知の大地を求めて海の上を旅しているんだよ。
ここからは今は一隻の船も見えない。私もその行き交う船のひとつに乗って、この島へやってきた…とあの人は言う。私自身は何一つ、覚えていないけれど。
―この世界にはまだまだ謎が多いから、みんな一つでも多く謎を解き明かそうと必死なんだ。僕はね、謎は謎のままでも美しいって思うんだけど…
足首まで浸かった浅瀬にしゃがみ込み、目を伏せたあの人は、流れ着いた真っ白な珊瑚の死骸を弄ぶ。水は驚くほど透き通っていた。足元には黄色い魚の群れが花弁のようにひらひらと泳いでいる。
―以前の灯台守が残した研究を見てるとね、世界を知るのも悪くないかもって、そう思うんだ…。
だから、いつか僕は船を作るよ。昔本で読んだような、風を読む頭のいい帆船をさ。そうしたら島を出るんだ。水と食料と、釣竿と、それに楽器を持って…
…ね、これってなかなか素敵でしょ?
幸せそうに夢を語るその声は、希望に満ち溢れていながら、ほんの僅かに虚ろな響きを含んでいて、けれど私にはその理由が分からなくて悲しくなった。
水底の砂を浅く掘ると、掌で転がしていた珊瑚を埋めた。きっとすぐに波にさらわれて、珊瑚の死骸はあの人より先に、あの人に代わって世界を巡るのだろう。
いっそう明るく照りつける陽の光を受けたあの人の姿が、そのまま海に溶けて消えてしまう気がして、私は見失わないように涙の滲む目を細めて必死に瞬きをこらえる。立ち上がって海を見つめる後ろ姿は、私よりもずっと小さく儚いもののように思えた。
そうしてしばらくの間、私たちはその場所に立ち尽くしていた。
急速に海面が上昇し、気づけばあの人の膝下までが海水に浸かり、私のつま先にも水が迫っていた。太陽も速度を上げて落下している。
―今日は潮が満ちるのが早いね。…ねえ、そろそろ帰ろうか。これじゃ、日が沈むのもきっとすぐだよ。灯りの準備をしなくちゃね。
岩場へ上がるとあの人は私の手を取り歩きはじめた。海水に濡れた手は少しだけ冷たくて、私はぎゅっと、その大きな手を握り返す。
西からの陽光に満ちた石灰の洞穴を通り抜けて、ゆっくりと並んで歩く。私たちの家へ、灯台へ帰るために。